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慈悲の熟す時


この前、また一人で温泉に行き、その後深大寺へお散歩に行った。
(すでに隠居の休日の過ごし方です)

お寺や神社はスキです。
全然、仏教に詳しい訳でもないけど、、、
空気がスキです。
清らかな気がスキです。
心が落ち着きます。

漠然とやりたい事を終えたらこういうところで過ごしたいって思う。
早起きして、掃除してお祈りして、穏やかな日々を過ごす。
まだまだ、色々やりたいこともあるし、今の私ではそういう生活は無理だと思うけど、時が来たらそういう生き方をしたいなぁ〜って。


お寺に置いてあった無料の情報誌にこんな事が書いてありました。
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慈悲とは熟するものである。
慈悲心が備わってから慈悲行を行うものではない。

最初は「慈悲に心あり」で慈悲の行為をとにかく意識して行うところから始まる。
しかし、慈悲行は続けていくうちに次第に習慣化し、「熟し」てくる。それは文字を覚えるのに似ている。最初は意識して形や書き順を習うが、慣れてくれば自由自在に書けるようになるし、これは文字を書く事に「熟し」たのである。

慈悲行も次第に熟してきて、それと意識しないで慈悲を行っている。
それこそが『慈悲の熟すなり。慈悲して慈悲を知らぬ時、仏というなり』というのである。
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ヨガの練習と同じだな〜と一人電車の中でうなずいてました(隠居モード)
ヨガのアサナの練習も然り。
始めはアサナをとるということ自体が難しい。順番を覚えることから始めなければならないし、意識しなければ、形になることすらままならない。とても瞑想状態でなんて出来ない。呼吸は止まる。それが日々の練習で熟していくのでしょう。
『上達』や『習得』という言葉より『熟す』や『深まる』という言葉がしっくりくる。

また、毎朝練習するという練習も習慣になるまでは、非常に難しい。
すべての生活から正して行かなければならない。
寝る時間から食べるもの、食べる時間、、、お酒、タバコ、、、夜遊び、、、、。
練習を続けていけば自然にというこもあるかもしれないが、自分でも意識して練習(アサナの練習だけじゃなく)していくことはとても大切だと思う。

そこに執着して、こだわりすぎてはいけないとは思うけど。
自分では精進!!って思ってやっていても、いつの間にか捕われている事が多い。私はすぐにそうなってしまいがち、、、、。

しっかりと自分の心と繋がって、揺れている自分の心を感じ、揺れ心を優しさと愛で包みたい。でも、包み込めずたまに落っこちる(笑)イヤ、、、、たまにじゃないかも、、、、(泣)

大きく揺れ動かされ、戻って来る度、真理に近づく、、、、。

by prema8ryn | 2006-10-15 11:59 | yogiヘの道

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