カテゴリ:yogiヘの道( 33 )

心の井戸

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溺れるなかれ。。。。




感情の中に入り込むとすべてがその世界に変わる。



怒りに飲み込まれれば、世界は怒りの世界に、、、、悲しみに飲み込まれれば、すべてが悲しみの世界に変わる。




自分の心が感情の穴に入り込むと、すべてがその色に染まる。

まるで、井戸の中。

世界は広いのに、自分で世界を閉ざす。

心の中には様々な感情がある。

完全なる悪もなければ完全なる善もない。

だからこそ、人間でありここにいる。



排除なんてしなくていい。

浄化って言葉で自分を責めて、追い込む必要はない。

ただ、気づいてあげれば良い。

そのままの自分で。

慈しみたい。




感情に酔わない。

飲み込まれては何も見えない。



自分をやさしく見つめよう。



心を見守る優しい目を持とう。



時々、暗闇に落ちたと感じる。

でも、本当は暗闇を作っているのは自分。

落ちたのではない。

壁を作って見えなくしている。

心が作り出す壁。



心が安らかで幸せに溢れれば、この世界が平和だ。





喜びや快楽にも同様に溺れない。

光の中に身を投じれば、眩しさで目がくらむ。

一人では歩けない。



自分の苦しみに気づいてこそ、光を求める。




心を柔軟にどこまでも広く。。。




CHITTA VRITTI NIRODHAH
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by prema8ryn | 2009-06-22 16:05 | yogiヘの道

言葉のまやかし


久々のブログです。
最近はパソコンに向かうことが多く、逆に文章を書く気になれませんでした。

最近、「ヴァガバットギータ」を読み始めました。
ヨガをする上で、「ヨガスートラ」と「ヴァガバットギータ」は読んでおくべき本としてあげられている。でも、今まで読む気になれなくて、、、。

でも、読んでみるととても面白い!
面白いというのは、理解できて物語が面白いというよりも、読んでいなかったこの本の中に書かれていることが、私はヨガのポーズの練習の中で十分に読み取ってきたものがあったからです。もちろん読んでみて、意味のわからないこともありましたが、その文の中から自分の中にある様々な思いとリンクしていきました。一つの文章から練習の中から沸き上がってきた色々思いと重なり合います。
これが「99%の練習1%の理論」というグルジの言葉かと思いました。
そして、まだ理解出来ない部分もきっと、練習の中から教えられることでしょう。

言葉とは不思議なものです。
今読んでいる本にとても共感できる文があったので、ご紹介します。


堅い意志はただひとつの理想に向かう。
決断力のないものは些細なことにとらわれて際限なく放棄する。
分別のないものは聖典の言葉を好んで口にするが、それは本当は正しくない。
彼らは俗世的な欲望を満たして天の報いを得ようとしてる。
彼らは美しい言葉を用いる。
彼らは快楽や権力を得るために特別の祭祀を行う。
しかし実際には人を再生の鎖につなぐカルマの法以外には何も知らない。
このような言葉には分別を奪われた者は快楽や権力に一層強く執着する。
彼らは心の統一を深めることはできず神と一致することはない。


この文はとても普段の私たちの生活とは切り離されている用に感じますか?
悟りを開くような修行の者のみのことばでしょうか?

私はそうは思いません。我々の生活の中で自然と起こっていることです。
わかったようなふりで、専門用語を並べ立て、自分の知識をひけらかしたり、自分の意志を伝えるのに本やことわざ、著名人の言葉で飾り立てたりして、自分を大きく見せたり、宇宙や愛、神、エコ、環境、、、、という言葉で飾りつけをして、とても素晴らしく崇高な行いのように見せたり。

期間限定でイベント的な催しをして、なんとなく繕ったり。
クリスマスやバレンタインもそうかもしれないし、ヨガのWSやダイエットもそうかもしれない。
それも「愛を確かめ合う」とか「集中して勉強」とか「短期間で効果的」とかそんな言葉を使うと様々なことが肯定され、良い行いになる。

イベントが悪いわけではないし、言葉には罪はない。
でも、言葉に踊らされてはいけないと思う。
それに向かう心が大切で結果を得るためのものではない。

そう言ってこうしてブログを書くのもおかしない話だけど。本の言葉を抜粋してるし(笑)
でも、それを読んで感じたことを自分の言葉で語りたいとは思っています。

私達は、いくらでも毎日の生活の中で学びがたくさんあるって思います。ヨガって特別な事じゃない!!サンスクリット語を理解できなくても、ヨガスートラやヴァガバットギータを暗記したり、読み解かなくても私はヨガを学んでいると堂々と言える!と、それをヴァガバットギータが教えてくれました。(ま、読んでおいた方がいいのかもしれませんが〜、読んで暗記すればいいってものではないでしょう)

やっぱ中身!心の内側が大事ですね。
行動の結果が大切じゃなくて、行動する意志が純粋であることの方が素敵♪
ヨガのポーズも一緒!どれだけポーズがとれたかが大事なのではなく、練習そのものが素晴らしいのです。

OM
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by prema8ryn | 2009-03-27 12:26 | yogiヘの道

水俣病で世界を癒す

京都から戻ってきました。

最近は新しい刺激がたくさんあり、いろいろと忙しいです。
みなさんとも私の小宇宙で起こっている日々の大爆発を紹介したいのですが、追いつきません(笑)

これは大学の授業で講演された水俣病患者の杉本さんのお話を聞いての感想文です。


<水俣病を癒す>

ご縁があり、水俣病患者の杉本さんのお話を聞く機会をいただきました。それは今まで知っていた水俣病とは全く違ったお話でした。このお話を聞くまでは「水俣病」という名前は知っていても、それに関するいくつかのデータとして頭に刻まれた程度でした。私の知識として頭に残るのみで、心に響くものではありませんでした。多くの人が教科書で学んだ公害としての認識として、頭には残っているはずです。でも、このお話を心で感じて欲しいとお話を聞き、心からそう思いました。それほど、今でも自分へと問いかけ大きな学びとなっております。
杉本さんのお話は、私の知っている教科書で書いてあるものとは、まったく質の違うものでした。私が記憶しているのは、公害としての歴史的背景とデータです。それは机の上での勉強であり、無機質なものです。そこには人の心が見えません。今回のお話は真理であり、哲学です。

杉本さんのお顔を拝見した時、綺麗な人だと思いました。内側から感じられる清らかさとでも言いましょうか、本当に美しいと思いました。水俣病という病気に負けていない、侵されていない人だと思います。学術的にみたら病気となるのでしょうが、汚れのない健康な気だと思いました。最初の印象からお話を聞くにつれ、その意味がわかってきました。

水俣病という病気をも自分の一部として受け入れ、生きているのではないでしょうか。他者を恨んだり、否定したり、呪ったり、そういった心では平穏は得られません。お金を貰ったり、保証を受けたからといって、得られるられるものではありません。そういったものに囚われない強さを、この水俣病と共に勝ち取ったのではないかと思います。その境地に至るまでどのような葛藤があったのでしょうか、、、どれだけ迷い、苦悩し、答えを見いだしたのでしょう。それには、まず自分自身のおかれた状況を把握し、受け入れたからこそ見えた道だったと思います。しかし、それはとても勇気がいることだったと思います。しっかりと目を見開いて感じることは、時にとても辛い作業です。そして、本当の水俣病の原因を見つけ、自分の平穏を見つけられたのだと思います。

水俣の町の中で起こったことは、非常に痛ましいものです。それは同郷のもの同士が、いがみ合い憎しみ合い、被害者になったり加害者になったり、どちらが勝っても負けても幸せになれない状況だったと推測します。本来であれば、助け合い、励まし合う仲間であったはずの者同士で、様々な感情が入り乱れていったことを思うと、本当に悲しいことです。インド古代叙情詩の「バガヴァッド・ギータ」というお話があります。このお話は、親族同士が戦争をするという状況の中での苦悩と葛藤を通して、人の心の真理や哲学を説いています。水俣もまさに同じような状況であったと思います。
杉本さんもおっしゃっていたように、水俣病というのは、単に水銀で身体が不自由になったということではなく、こうした状況すべてのことが水俣病であると思います。原因も水銀やチッソを悪とするのは簡単です。でも、それではそこで終わりです。「何故、それが起こったか?」そこが重要なのだと思います。

これはただの地域の問題ではないのです。すべてに繋がるヒントです。高尾山の問題、チベットの問題、食品問題、世界中に広がる問題を紐解く鍵ではないでしょうか?善と悪に別れ戦っていても、この連鎖は切れません。その問題から逃れてもまた他の問題が生まれます。

杉本さんは「自分のことしか考えないから」とおっしゃっていました。では、それは私たちにはないのでしょうか?誰でも自分の幸せを願います。私は、それを考えると自信を持って答えられません。自分の中にも我が儘で、欲張りな自分がいます。加害者だけでなく被害者の中にもそういう気持ちを持った人がいたかもしれませんし、加害者の中にも心を痛め苦しんだ人もいるでしょう。だからといって許されることとは思いません。しかし、このことから学ぶべきことを誤ってはいけないと思います。何かを罰したり規制したりということだけに囚われ、本当の原因を忘れてはいけません。法律や規制をすることでは、根本な解決にはならないと思います。本当の原因を一人一人が学び、見つけることが救いであると思います。すべて人の心の中に杉本さんのおっしゃる水俣病はあるのだと思います。水俣病を癒す、、、つまり自分を癒すことです。ですから、私たちは自分が満たされるように、内に問いかけなければなりません。自分が満たされ幸せな人は、何も欲しないし、他者のものを奪うことはしません。一人で完璧であるからです。自分が大切であれば、すべてのものを慈しみ大切にするでしょう。それが、私たちがこの地球の生命と共に生きる道であると強く感じます。ですが、私もそう思っていても日々の日常でも自分本位に振る舞っています。だから、まずは気づくこと。感じること。大切なものを思い出すことから始めてみたいと思います。

そんな気長なことをと思うかもしれませんが、時間がいくらかかろうと取り戻さなければならないものです。外枠だけ取り繕っても、すべては人の心が引き起こしたことです。まずは日々の生活の中で自分を大切に育てていくために何をすべきかを考えていきたいと思います。無力な私の小さな一歩ですが、小さな一歩も続けていけば、幸せに繋がっていると思います。私の幸せは、世界の幸せとも繋がっているとも信じています。人間が生きるための地球ではなない。自然への尊敬と敬意を持ち、この地球で生かされている自分を思い出さなければなりません。

私にとってのヨガは生きることそのものです。
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by prema8ryn | 2009-03-16 15:16 | yogiヘの道

テキトーに自由に生きる

最近、ヨガの朝の練習に寝坊しっぱなしです(笑)

昨日は、私の師匠、ロン毛先生にお話があり電話しました。
久々に少しお話ができて、なんとなく安心しました。
電話するまでは、めんどくさい気分に襲われるんですが(笑)、たわいもない話しですが、話すとうれしく感じます。

「何か手伝うことはあったら連絡してねー」というと、「とりあえず、元気でいてくれればいい」となんともケンさんらしい答えが返ってきた。

ケンさんを見てて、非常に尊敬出来る点は「適当さ」です。まさにサーファーですよ。
絶対に威圧的に自分の考えを生徒に押しつけたりしない。それは一見冷たくみえたりする時もある。それが、昔の私は許せない部分でした。でも、結局本人の問題だと最近は私も感じます。

「適当」=「適度」という感じでとらえています。
テキトーでいるためには、自分をよくよく吟味してバランスをとらないといけないと思います。私は頭で「こうあるべき」と考える達でした。それが、精進してることで、自分を鍛えることに繋がるという考えでした。でも、頑なさというのはポキッと折れてしまいます。
適当でいるために、柔軟であることが必要です。ですが、柔軟だけだと流されます。自分の意志という力強さというものも大切に思います。


すべては自分が整理されていることが、ヒントに思えてきます。


我々が転ぶためにいちいち手を差し伸べたり、迷うたびに手を引いていたら、一人では進むことができません。それは、不自由というものです。誰かがいなければ進めないのは、自由ではないです。規律などに縛り付けられるよりももっと不自由であると私は思います。

そう思うようになり、私は良い先生に出会えたとつくづく感じるようになりました。

本当の「自由さ」というのは厳しもので、自分自身に自答すること又は自分の内へと向かうことで得られることではないでしょうか、、、、。
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by prema8ryn | 2009-03-04 12:26 | yogiヘの道

知足


やっと身体が動くようになりました。

アサナというものに対しての自分の取り組みが緩やかに変化してきたことを感じます。
以前からも思っていることですが、練習を重ねる事にもっとその事実を掘り下げていっている感じがします。

今回、腰を痛めてしばらくポーズがとれませんでした。
練習を再開しても満足に動けるようになるまでに時間がかかりました。
でも、いくら不格好で満足に形がとれなくても、私にとっては本当に満足で完璧な練習でした。集中と呼吸に身体を預けました。今、自分が動ける最大限を味わいました。それこそが自由であり完璧さだと感じます。美しい形をとることが完璧さではない。

身体が動かないという制約を受け始めて、こだわりという捕らわれから抜け出せました。
普段、どれだけ形へのこだわりポーズへのこだわりが自分を不自由にしてるかを感じました。

我々はポーズが苦しく、不完全であるのは自分の身体的能力よるものであると考えます。そうではないと頭では理解しているつもりでも、まだまだこだわりに縛り付けられている自分に改めて気づかされる訳です。

そう考えると本当にポーズが先に進んでいくことなど、たいした問題ではないと思います。
ですが、進むことによってこうした自分の我と向き合う機会が与えられるのだと思います。

だからそこ、淡々と練習を積み上げていくことの大切さが身にしみます。
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by prema8ryn | 2009-02-11 12:40 | yogiヘの道

バージョンチェンジ

月夜の宴が終わり、ずっと内観しておりました。

ここ最近の出来事、さらにさかのぼり様々な思いが押し寄せました。
過去を思いだし、再びその時の感情に陥ったり、またはその時に正直に表現できなくて溜まっていた負のエネルギーにかき乱されたり。

しかし、徐々に落ち着きを取り戻し、エネルギーが戻ってきました。
徐々に迷いは消えていき、今日完全に消え去りました。


今、変化が起きています。私が脱皮します。


その環境を整えてくれているんだと思います。必要な縁を繋げてくれたり、必要ないものは切れていったり、、、、それが怖かったり、悲し事として感じていましたが、私がより自分らしく生きるために、起こったことであると思いました。それがあっているあっていないではなく、私がそう思ったということが大切だと思います。

ヨガに出会って今年で8年。
あっという間でした。でも、この8年で得たものは私の宝です。
自分自身とやっと向き合い、自分を大切に思えるようになったのかな〜と思います。これからも自分の魂がより輝くように努力したいと思います。お互い高め合うような人々と引かれ合い高め合いたい。

私の変化に合わせ、周りも変化してきました。「今回もそうなんだ!」と思えたとき、とても気が楽になりました。人生の波に乗っていかなければ、いつまでたっても自分を成長させられない。知識や肩書き、技術、財産よりも大切な事!心が成長しなければ、それらだって使いこなせない。


数日前から元気は取り戻していたのですが、今日こんな境地に達することができ、感謝!!こんなに早く抜け出せるとは思わなかった〜。

だから、マヤリンはバージョンアップ!!

本当に怖いのは成長が止まってしまうこと。囚われを捨て、己の恐れに打ち勝たなければならない。


「月夜の宴」のために書いた詩を思い出した。この詩は予知だったのではないだろうか、、、、。まさに今、この詩がしっくりきます。

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黄金回帰

金色(こんじき)の海原に舞い降りる
沸き立つような 薫(かおる)思い

古き衣を脱ぎ捨て 虞(おそれ)を砕く
光に包まれ黄金(こがね)に染まる

月は萌え立ち 道を照らす

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私、黄金オーラに変化しますよ〜〜〜〜〜〜(見えないけど。。。笑)
マヤリンガム降臨か?!

私は前に進みます!!
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by prema8ryn | 2008-08-19 01:41 | yogiヘの道

揺らぎ



ふと飛び込んで来る情報。
その情報に心が乱れる。

様々な思いが沸き上がってきて、それを突き詰めようとすればするほど、曖昧に変わっていく。

平和的行動も痛ましい事件も、、、その一方だけを見て、善悪を決めることが難しい。エコや平和的な活動の中にも様々な人が集まり、様々な思いが交差する。残忍な事件や悲惨な事故も加害者、被害者と別けるけど、、、加害者の中にも自分と重なる部分を見いだしてしまったり、被害者の中にも他者を攻撃する感情が溢れてる様を見たり、、、、。もちろん、起きた事柄を思うと心は痛む。

昔は白黒つかない曖昧なことが気持ち悪く、どっちつかずなのが許せなかった。これは正義でこれは悪。これは良いことでこれは悪いこと。そういう線引きができなくなってきた。私の中に完全な悪もなく、完璧な平和もない。
だから、最近心に飛び込んでくる情報や現象に心がかき乱されるのだけど、突き詰めて行こうとすると、曖昧になっていく。どっちが悪だ!これが正しい!と言えない。

結局、自分自身の追求へと変わっていってしまう。その中で色々な自分に出会う。様々な人の中に自分と同じ部分を感じる。私の中にも攻撃性や残忍的な感情もある。その事に気づかされて、気分が滅入る。同じように私の中には愛情や慈しむ気持ちもたくさんある。自分の負の感情にさらに負の感情で対抗したり、抗ったりしたくない。自分の一部だから否定したくない。

外側の情報(そんな言い方になってしまうけど)から様々な刺激を受けるけど、結局自分に向かってしまう。同調してしまうからこそ、どちらがどうというはっきりした心情でなくなる。それが自分の身近におこったことだとしたら、また違ってくるのかもしれないけど、、、。
時々、自分が冷たい人、情けのない人のように思う時がある。そんな時は悲しい。


だけど、自分の光の部分ばかりに目を向けていると、光で何も見えないんじゃないかと思う。暗闇ばからいに目を向けていると、光が痛い。自分のすべてが暗闇に思えてくる。どちらに溺れても自分を見えなくする。自分の暗闇に気づくからそこ光を求めるんじゃないかと思う。どちらかだけしか見つめないのは弱虫だと感じた。

今日、練習してて「強くなりたい」とまた強く思った。
自分のすべてを見つめてこその強さだと思うのねー。


チベットの理想郷シャンバラへたどり着くための、勇者になるための道が書かれた本がある。このシャンバラというのは、涅槃のことだと思う。またはシャンティ。
心の中の平穏の境地だと私は解釈してる。これはヨガの教えと同じと思う。

そこには、目覚めたハート(ボーディチッタ)は純粋で繊細と書かれていた。恐れや悲しみを抱えているからこそ、それを超えて勇者になるそうだ。自分の中の臆病さを知っているからこそ強くなれる。悲しみがあるから優しくなれる。

小さい頃から感受性が強く、他人の感情に怯えていたからこそ、自分を殻に閉じこめて虚勢を張った。強がったり、肩書きを欲したり、物や容姿にこだわったり。それが強さでパワーだと思っていた。でも、それは自分の弱さを隠すためのものだと気がついた。自分と向き合ったとき、初めてそれが出てきたかのように、嘆き悲しんだ。気がついたものをもう一度見なかったことにはできないから、大きな悲しみと恐れから怒りが溢れだし、苦しんだ。そんな時にこの本に助けられました。

また、この本の事を思い出しました。
実は、この本は全部読めてないんです。繰り返し読み返して、徐々に進んでいってるんです。私はそういう本が何冊かあります。読めば読むほど、噛みしめています。

今の悲しさや不安感も、勇者への道だと考えたら、悪くはない(笑)とっても未来は明るい。いつまでも悲しみに浸っているのは好きじゃない。苦行は自分の苦しみから逃げない事だと信じてるから。全然悲観的でもストイックでもなく、明るい方へ歩いている。とっても前向きだと思う。

必ず、流れているからすべての思いは止まらない。
すべてのものが変化してる。
流れながら、美しく磨かれる。
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by prema8ryn | 2008-06-11 10:50 | yogiヘの道

練習できるありがたさ〜

「月夜の宴」以来、足を完全に痛めてしまい、ヨガの練習ができなかった。
その後レディースホリディーなどがあり、なかなか練習に復帰できずにいた。

新月とも重なり、久々に気分が落ち込んだ。
昔の思考回路に戻ってしまったのかな〜
時々襲ってきていた孤独感。
引き金になるものはあるのだけど、きっとそれが原因でない事は、、、理解してる。

今日は練習できて本当に楽しくて幸せだった。
思った以上に体は動かなかったけど(笑)
いつもヨガは私を見捨てたりしないで無償の教えを与えてくれる。
感謝 感謝 感謝。


ここ数日は心がダークサイドだったけど、最近はとっても穏やかな心でいれることが多かった。


ただ、、、チベットのことだけは心が痛み、ニュースに出るたび涙が出た。
中国に対してとかだけではなく、抗議の仕方など、目に飛び込んで来るものが平和的に見えない。気持ちは「Free Tibet」なんだけど、その大きな流れの中には色々な考えの人がいて、私は同化することができない。自分の中で違和感が襲う。

ヨガを始めた頃、怒りの炎に焼かれていたことがある。そこは自分の正義感や愛から来るものだったけど、そこからは平和は訪れなかった。自分も焼かれたし、苦しかったし、他者も傷つけた。その時、とってもダライラマの言葉が助けてくれたんだよね。ダライラマの自伝を読んだとき、私の些細な怒りなど、この人の比ではないと思った。でも、ダライラマは優しく微笑んでいた。それが菩薩なのだと思った。私はそういったところを尊敬している。私には非常に難しいことだから。ヨガを通じて心を育てたいと思った。

アヒムサ 非暴力 
この言葉は単に暴力や殺生のことを言っているのではない。
苦痛を引き起こさないことである。単に暴力だけでなく、心や言葉によってでも自分や他者に苦痛を与える。

ヨガスートラの中にこんな言葉がある。
「アヒムサーに徹した者のそばでは、すべての敵対が止む」

私はとても批判的な人間だと思うし、自分の正義のために他者を攻撃する傾向がある。
でも、自分の正義は世界の正義とはかぎらない。私が正しいと思っていることから外れたとしても、その人が必ずしも悪人と言うわけではない。それを正したいというのは私の「我」以外のなにものでもない。たとえそれが私にとっては良いものでも、他者の中にはそれに対抗する様々な思いが詰まっていて、無理矢理それを行えば、その人自身を苦しませることになる。又は依存させ成長を止めるとこさえある。

私はヨガの練習を通して日々色んなことを感じてる。正しいか正しくないかはわからないけど、それがその時の私だ。いつも正直に伸び伸びと生きたい。自分の内側からわき起こる教えこそが本当の学びだと思う。それを学ぶ教材は人生が用意してくれてる。だから、私は安心してヨガっていようと思う。

私は私らしく生きれるように努力しよう♪
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by prema8ryn | 2008-05-07 11:13 | yogiヘの道

アシスタント


マイソールクラスのアシスタントとして、ケンさんの下で学ばせてもらっている。
本当に多く学びがあり、ケンさんに感謝の気持ちが溢れます。

最初はちょっと尻込みしながら始まった。
正直、迷いがあったから、、、。
私が、マイソールクラスのアシスタントをする事に、自信がなかった。

始まった当初、前回アシスタントした時に出てきた思いに捕われていた。みんなに受け入れられなかったら、どーしよー。拒まれる恐怖、、、。
だから、今回は始めたばかりの人や自分のクラスに出ていた方などをアシストしていた。私がアシストするよりケンさんに見てもらいたい人が多いだろうから、私は邪魔にならないように、、、、という感じで、今考えると非常に消極的だ。その時は、私に出来る事をちょっとづつやろうというスタンスで、謙虚なつもりでいた。

でも、しばらくたって、ケンさんからミーティングをしようと言われ、お話をした。
そこでマイソールクラスについての話をしてくれた。私のアシストに対する注意などを言う訳ではない。だけど、とても大きなものを受け取った感じがした。

まだ、噛み砕いて理解出来たとはいえないけど、時間をかけて学ぶべき道筋がぼんやりと浮かび上がってきた。

自分のこだわりを押し付けない。他人のこだわりを認める。
呼吸とビンヤサが大切で、練習の場を壊さないこと。

私が印象に残っているのはこの二つ。
これを聞いた時は、そうか〜ってくらいにしかわからなかったけど、数日間このミーティングの時の言葉を何度も反復していた。

マイソールのアシスタントをしてまず驚いたのが、マイソールクラスがどのクラスよりもポーズの形が崩れてる、、、。セカンドシリーズなどをやってる人は多いけど、一つ一つのポーズはけっして美しいヨガのアサナではない。
正直、、、、ショックだった。
そこが目について仕方なかった。

でも、このミーティングを境にあまり気にならなくなった。

それは、私の「こだわり」だと言う事に気がついたからだと思う。やはり、マイソールクラスはその人の練習なのだと思った。確かに間違った事は言ったとは思わないけど、結局は本人が気がつくしかないのだと思う。ビンヤサを止めない程度にいまでも、時々アドバイスやアシストはするけど、その場の空気を乱さない方が大切に思える。

アクションを起こす時に、自分自身の思い(それを我っていうのかな〜)が入ると、純粋なものが歪む。とても難しいことだ。

ケンさんは、「自分の行う行為に期待を持たない」というような言い方をしていたと思う。
つまり、私なりに解釈すると、相手をアシストする時、その結果を期待して行うとそれが相手にも伝わり、プレッシャーになる。それが上手く行けば、お互いが嬉しい。しかし、思い描いたとおりに行かなければ、ストレスに変わるのだ。上手く行ったときでさえ、そこに自分の思いが加わると、依存が生まれるのではないかと思う。行為や相手の態度で自分を計る事をしてしまう。

だから、心を静かに行うべき事を淡々と行う。


言葉にするのは簡単だけど(笑)難しいよな〜〜〜〜〜
でも、それを実践して学ぶことの素晴らしさを垣間みた。

私はアシスタントをしてるのではなく、練習をさせてもらっているということがわかった。

ポーズを練習している時と何も変わらない。
それに気づかされた時、感謝の気持ちがあふれた。

そして、始めに実践しようとしていた事は、「謙虚」ではなく、「傲慢」であり、「臆病」だったと気づけた。

少しだけ、、、、マイソールクラスが楽しくなった。


OM Shanthi
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by prema8ryn | 2007-09-28 11:56 | yogiヘの道

時間を外した日

昨日から明日は早起きしようと決めていた。
そして、朝3時に起きてパソコンをあけて、友達の日記を読んでみると、数人の友達の日記で同じ言葉が、、、、『時間を外した日』


今日(7月25日)は、毎年マヤカレンダーでは『時間を外した日』だそうです。

*************************************
月の満ち欠け(約29.53日)と、月の公転周期(約27.21日)のおよそ中間にあたる28日で毎月をカウントし、13ヶ月×28日=364日と、特定の月、日付、曜日に対応しない「時間をはずした日(7月25日)」という特別な一日を付け加えた365日で、一年が成り立っています。
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明日(7月26日)から新年だそうです。
25日は旧年にも新年にもどちらにも属さない日なんですって〜、狭間の日ですね。


関係あるかどうかわからないけど、今日はすっきりと目が覚め、スタジオに行き、4時半には練習を始め、6時半にはもう終わっていた。まだ、体が痛くて全然動けないんだけど、とても楽しく練習できた。動ける時よりさらに、自分の体の感覚ってものに惑わされない感じがする。

形へのこだわり、達成へのこだわり、肉体へのこだわりを捨てる。

私の場合、プラティヤハーラ(制感、感覚のコントロール)ダラーナ(凝然、集中)ディアーナ(静虜、瞑想)は体が動かない方が、より深く感じられる。ある一点に入り込みすぎないでいることができる。昔は逆だった。
体が思うように動かない事へのストレスが大きかった。しかし、思うように押さえつけるのと、自由にし開放しそれを制御するのは微妙に違うと感じる。

結果ではなく、その過程が宝なのだと思う。
そのためのアサナ(ポーズ)の練習だと感じます。

ただ、練習する。日々、練習する。今を感じる。
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by prema8ryn | 2007-07-25 09:48 | yogiヘの道