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揺らぎ



ふと飛び込んで来る情報。
その情報に心が乱れる。

様々な思いが沸き上がってきて、それを突き詰めようとすればするほど、曖昧に変わっていく。

平和的行動も痛ましい事件も、、、その一方だけを見て、善悪を決めることが難しい。エコや平和的な活動の中にも様々な人が集まり、様々な思いが交差する。残忍な事件や悲惨な事故も加害者、被害者と別けるけど、、、加害者の中にも自分と重なる部分を見いだしてしまったり、被害者の中にも他者を攻撃する感情が溢れてる様を見たり、、、、。もちろん、起きた事柄を思うと心は痛む。

昔は白黒つかない曖昧なことが気持ち悪く、どっちつかずなのが許せなかった。これは正義でこれは悪。これは良いことでこれは悪いこと。そういう線引きができなくなってきた。私の中に完全な悪もなく、完璧な平和もない。
だから、最近心に飛び込んでくる情報や現象に心がかき乱されるのだけど、突き詰めて行こうとすると、曖昧になっていく。どっちが悪だ!これが正しい!と言えない。

結局、自分自身の追求へと変わっていってしまう。その中で色々な自分に出会う。様々な人の中に自分と同じ部分を感じる。私の中にも攻撃性や残忍的な感情もある。その事に気づかされて、気分が滅入る。同じように私の中には愛情や慈しむ気持ちもたくさんある。自分の負の感情にさらに負の感情で対抗したり、抗ったりしたくない。自分の一部だから否定したくない。

外側の情報(そんな言い方になってしまうけど)から様々な刺激を受けるけど、結局自分に向かってしまう。同調してしまうからこそ、どちらがどうというはっきりした心情でなくなる。それが自分の身近におこったことだとしたら、また違ってくるのかもしれないけど、、、。
時々、自分が冷たい人、情けのない人のように思う時がある。そんな時は悲しい。


だけど、自分の光の部分ばかりに目を向けていると、光で何も見えないんじゃないかと思う。暗闇ばからいに目を向けていると、光が痛い。自分のすべてが暗闇に思えてくる。どちらに溺れても自分を見えなくする。自分の暗闇に気づくからそこ光を求めるんじゃないかと思う。どちらかだけしか見つめないのは弱虫だと感じた。

今日、練習してて「強くなりたい」とまた強く思った。
自分のすべてを見つめてこその強さだと思うのねー。


チベットの理想郷シャンバラへたどり着くための、勇者になるための道が書かれた本がある。このシャンバラというのは、涅槃のことだと思う。またはシャンティ。
心の中の平穏の境地だと私は解釈してる。これはヨガの教えと同じと思う。

そこには、目覚めたハート(ボーディチッタ)は純粋で繊細と書かれていた。恐れや悲しみを抱えているからこそ、それを超えて勇者になるそうだ。自分の中の臆病さを知っているからこそ強くなれる。悲しみがあるから優しくなれる。

小さい頃から感受性が強く、他人の感情に怯えていたからこそ、自分を殻に閉じこめて虚勢を張った。強がったり、肩書きを欲したり、物や容姿にこだわったり。それが強さでパワーだと思っていた。でも、それは自分の弱さを隠すためのものだと気がついた。自分と向き合ったとき、初めてそれが出てきたかのように、嘆き悲しんだ。気がついたものをもう一度見なかったことにはできないから、大きな悲しみと恐れから怒りが溢れだし、苦しんだ。そんな時にこの本に助けられました。

また、この本の事を思い出しました。
実は、この本は全部読めてないんです。繰り返し読み返して、徐々に進んでいってるんです。私はそういう本が何冊かあります。読めば読むほど、噛みしめています。

今の悲しさや不安感も、勇者への道だと考えたら、悪くはない(笑)とっても未来は明るい。いつまでも悲しみに浸っているのは好きじゃない。苦行は自分の苦しみから逃げない事だと信じてるから。全然悲観的でもストイックでもなく、明るい方へ歩いている。とっても前向きだと思う。

必ず、流れているからすべての思いは止まらない。
すべてのものが変化してる。
流れながら、美しく磨かれる。

by prema8ryn | 2008-06-11 10:50 | yogiヘの道

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